26章 「*** 次の日」の前 カットされたシーン 26章


佐都子を送っていったレイはリヴィエラをまた都心に走らした。
助手席にはミスタードーナツのボックス。
中はフレンチクルーラー、オールドファッション、グレイズドーナッツが入っている。
腹ペコ狼用にレイが用意した差し入れだった。

都心のネオンの中ゆっくりとリヴはフレイザーの宿泊しているホテル前に滑り込んだ。
レイはパーキングアテンダントに車のキーを預けるとコートを翻して中に入っていった。
きっとあの狼がお腹を空かせマウンティを困らせているに違いない。そんな軽い気持ちで立ち寄った。
フレイザーの部屋は27階2707。
唱えるようにオレンジ色の絨毯を踏んで進む。

コン、コン、コン。
手の甲で軽く扉をノックする。
だが、応答がない。
もう一度強めにノックをすると、六回めの'コン'の前でドアが開いた。

現れたのは派手な真っ赤なロンジョンのフレイザー。
赤ちゃんみたいなつなぎはボタンの一番上がはずれて白い肌を覗かせている。
髪はちょっと乱れ額のあたりがクルクルのウエーブを描いていた。
昼間とは全然違う姿にレイの目が丸くなる。

「やあ、レイ。」
フレイザーが明るい笑顔を見せた。
明るい?
いや違う。
頬は濡れている。
急いで拭ったあとだ。
泣いていた?
あいつが?
レイは咄嗟に心の中で自問自答した。

「来てくれて嬉しいよ。さあ中へ。」

導かれて大股で部屋に入る。
中は照明が落とされていた。
大きな窓の横とベット脇のランプだけが薄暗く部屋を照らしている。
窓の外には都会の夜景がまるで宝石箱のように散りばめられている。
レイは一瞬幻想の世界に迷いこんだ錯覚を受けた。

クーン。ディーフの鳴き声で現実に戻った。
鼻を鳴らしたオオカミはレイの右手のドーナツの箱に近寄りバッサリ奪い取ってそのまま部屋の隅に持って行ってしまった。

「ディーフ、こら、お前はなんてことを。」
取り上げようとするフレイザーをレイが制した。
「いいんだあいつへの差し入れだから。」
「ありがとう、レイ。」
フレイザーが力なく笑う。
「あっごめん、部屋が暗いね。今、つけるから。」
そう壁のスイッチに向かおうとする彼をレイの一言が呼び止めた。
「泣いていたのか?」
「いや、そんなことはないよ。」
背を向けたフレイザーの肩が震える。
「泣いていたんだな。」
「・・・・。」
嘘をつけないフレイザーがゆっくりレイの方を振り返った。向かい合って立つ二人。
フレイザーが消えそうな声で語りだした。
「父が何か悩んでいたのは知っていた。亡くなる少し前、話をしたときだ。様子がおかしかった。声の調子でわかっていた。何かあるって。何故あのとき"どうしたの?"と聞かなかったのかとずっと後悔している。あのときもし聞いていれば、今も父は生きていたかもしれない・・・。」

レイは俯いて話すフレイザーを黙って見守った。

「僕ら親子はいつもそうだった。父が悩んでいても決して自分からは無理に聞こうとはしない。それが父への敬意だと思っていたけど・・・。でも・・・ほんとは怖かったんだ。そのために父を死なせた。」
「フレイザー・・・・。」
フレイザーはギュっと唇を噛んだ。
すると突然、火がついたように早口でわめき始めた。
「僕があのとき"どうしたの?"と聞いてさえいれば・・・・・、僕があのとき父の心を少しでもわかろうと努力したならば・・・・、きっと・・・きっと(泣きじゃくる声) 父は死ななかったはずだ! 僕が悪かったんだ。僕が臆病だったから!僕さえ、僕さえ・・・。あああ・・・僕が父を殺したんだ!」
「いい加減にしろ!」
レイが泣き崩れるフレイザーの両肩を強い調子で掴む。それでもフレイザーは自分を責めるのをやめようとしない。それどころか余計取り乱し始めた。
「そうだ。僕が殺したんだ!僕が父を見殺しにしたんだ!」
「やめろったら!やめろ!そうじゃない!黙れよ!」
そうレイは強く言うと自制心の効かないカナダ人の唇をいきなり己の口で塞いだ。
フレイザーは驚き目を見開く。
もがき逃れよう頭を振る。
しかし、レイはフレイザーの頬をしっかり抱え、激しいキスを押し込め続けた。
熱く。
吸い込むようなkiss。
抵抗していたフレイザーがやがて瞼を閉じ腕をだらりと垂れた。
身を任せたマウンティの顔は苦悩から恍惚な表情に変わっていった。

息が切れる頃、ようやくレイはフレイザーの唇から離れた。
フレイザーがそっと伏せた睫を上げ、潤んだ大きな瞳でレイを見る。
レイはその美しい顔にしばし見とれるとゆっくりと諭すように話し始めた。
「いいか、ベニー。俺も親父がいたから知っている。親っていうものはなぁ、どんなことがあっても息子に助けなんて求めないもんなんだよ。例え聞かれてもな。
だからお前の親父さんもきっと言わなかったさ。
ああ誓って言える。
お前のせいじゃない。お前は悪くないんだ。
お前は立派に犯人を捕まえた。天国の親父さんだって喜んでいるはずだ。
あとはな、親父さんの名に恥じない立派な騎馬警官になることがお前の務めだ・・・。
わかったか。」

フレイザーはレイの言葉を聞きながらまた涙が溢れてきた。
そしてついにガラス玉の端からポロリと雫が落ちた。

「ったく・・。どうしてそんなに泣き虫なんだ。えっ?」
レイがやれやれという微笑を浮かべた。
照れたフレイザーもフっと笑う。
「レイ・・・・ありがとう。」
レイは黙ったまま頷いた。
フレイザーは一歩前に進むと彼の肩にゆっくりと頭を置いた。
レイは一瞬躊躇したが、それからフレイザーの腰に左手をそっと回した。
もう片方は彼のくしゃくしゃのこげ茶色の髪を撫でている。
くぐもった声でフレイザーが言う。
「君は優しいね。兄がいるみたいだ。」
「俺がか?」
「しばらくこうしていていい?」
「ああ。」

フレイザーは静かな啜り声を暫くあげた。

窓の外にはチラチラと夜景が光る。レイはまる銀河の中で二人ぼっちで抱き合っているような気がしてきた。
「大丈夫か?ベニー。」
「君といると落ち着く。君の鼓動を聞いていると・・・まるで昔からずっとずっと昔から君を知っていたような気がしてきた。何千年も前から・・そう・・生まれる前から・・・。ずっと。」
レイの回した手がフレイザーの体を強く抱き寄せる。
ピッタリとした赤い下着はくっきりと彼のボディーラインを表していた。
直に感じる、フレイザーの体、感触。
髪からは洗いたてのライムの香りがする。
柔らかい匂い。
フレイザーの匂い。

レイは息を呑んだ。
そしてやんわりとフレイザーを押し戻した。
「ごめん、君の自慢の服を汚してしまったようだ。」
「気にするな。」
レイとフレイザーの視線が繋がった。やがて透明な空気が流れ、そこからの動作はスローモーションだった。
フレイザーが顎を上げ睫をを伏せる。
長い睫に薄いピンクの唇。
天使の顔はレイだけに捧げられた。

もう二人には言葉はいらない、そのままレイはもう一度唇を重ねた。
今度はそっと触れるだけだった。

音もしないキスの後、フレイザーが恥ずかしそうに顔を赤らめた。

レイも取り繕うように頭を掻いた。
「じゃあ、俺行くわ。また明日。」
部屋を出ようとするレイをドーナツの粉を顔につけたディーフが名残惜しそうに見送る。
レイはポンポンと毛むくじゃらの頭を撫でながら言った。
「またあの泣き虫マウンティがバカなことを言い出さないように、見張ってくれよな。Watch Wolf!」
「クーン」

軽くウィンクをしてドアを閉めた。
パタン・・・。

その頃、佐都子は必死だった。るるぶ浅草を引っ張り出し、Tokyoウォーカーをジョキジョキと切り取り、傍らには、「誰にもわかる初めての東京」 などガイド本が並ぶ。
フレイザーとレイが甘い一瞬を過ごしていたにもかかわらずご苦労なこったであった。

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