涙の乾かぬうちに    

 フレイザーの記憶も戻り、毎日が通常に戻った。
木に登ったネコを助け、コソ泥を捕まえ、消火栓の側に止めた車を注意する。
レイとフレイザーは日常のこまごました事件を順調に解決し、土曜日には二人でバスケをする・・・そんな平和な日が続いていたある日のことだった。

【シカゴ27分署 自動販売機の前】
「ありがとうヒューゴ。」
そう言ってフレイザーは紅茶のカップを自動販売機の販売員から受け取った。
「けっ!なんだよ!このコーヒー!飲めたもんじゃねえ!」
レイが眉間にしわをよせて思いっきりまずそうな顔をする。
いつもと変わらない二人・・・。
そこへウェルシュ警部補が顔をこわばらせながら近づいてきた。

「警部補、飲めないっすよ。このコーヒー。カプチーノマシーンでも入れてくださいよ。」
そんなレイの言葉を無視して警部補はフレイザーの方へ体を向けた。
そして言葉を詰まらせながら低い声で用件を話し始めた。

「フレイザー巡査・・・君に捜査の協力してもらいたいんだが・・・。容疑者確認のための"line-up"にちょっと・・。」
レイがそこに割って入った。
「警部補、フレイザーはウチの署のものじゃないんだから、俺がやりますよ。」
そのときフレイザーは警部補を注意深く観察し彼の瞳の中に何か悲しい光があるのを感じ取った。
「いやいや、フレイザー巡査に並んでもらいたいと頼んでいるわけではないんだ。容疑者を確定して欲しいんだ。 ルーム6に来てくれ。みんな待っている。」
フレイザーはうなずき、カップを置いてそのまま警部補とともに部屋を出ることにした。階段を登りながら警部補は後ろについてきたレイに近づき小さな声で囁いた。

「フレイザー巡査に付き添ってやってくれ。彼はお前を必要とするはずだ。」
レイは警部補の様子からこれはただ事ではないことが起こっているということを感じ取り素早く同意の視線を交わした。

階段を登り、見覚えのあるガラスで仕切られた部屋にフレイザーは入っていった。その部屋には何人かの刑事が先に入っていたがフレイザーが入ってくるやいなや、いっせいに一歩下がって彼のために空間を空けた。フレイザーは軽く会釈し、ガラスに一番近いところに位置した。レイと警部補は彼を見守るように後ろに立つ。

フレイザーは注意深くガラスの向こうを見た。
その瞬間・・・ 胸が引き裂かれるような痛みが走り、息が止まった。
フレイザーは前を見る代わりにまるでその事実から逃れるように後ろに体を反り天を仰いだ。
「ああ・・・・」 それは嗚咽のような振り絞るような彼の心の叫びだった。

ガラスの向こうに並んでいるのは 5人の女性・・・・。
No2 ヴィクトリア・メタキャリフ

「1年前、彼女を見たことがあるのはこのシカゴ警察の中ではベッキオ刑事とフレイザー巡査だけなんだ。」ウェルシュ警部補は静かに言った。

ヴィクトリアは髪は既に短く、アゴの辺りの長さだった。だが相変わらず毛先はカールし、だらしなく全体がからまったようなヘアスタイルをしていた。そして最後に会った日と同じように痩せ細った体つきをしていた。

彼女は随時落ち着かない様子で頭を動かすので警備員に「体を動かすな。」と注意されていた。

「どうやって彼女を見つけたんですか・・・?」
フレイザーが震えた声を絞るように出した。
「巡査、何番の女性か言ってくれないか?」ウェルシュ警部補はフレイザーの質問を無視した。
「どうやって彼女を見つけたんですか・・・?」
フレイザーは自分の質問を譲らない。

警部補はためいきを一息つくと肩をすくめ、ゆっくり説明を始めた。最初のうちは聞き入っていたがしだいにその声は耳に入らなくなった。結局フレイザーにとっては彼女がどこで捕まったかなどどうでもよかった。唯一彼が知りたかったのは彼女が彼のことを聞いたかどうか"だっからだ。
(ヴィクトリアは僕がレイに撃たれプラットフォームに崩れ落ちた後、助かったのかそうでないか訊いたのだろうか?)その疑問がぐるぐる彼の頭を掻きまわした。

ウェルシュ警部補が話し終わるとフレイザーは恐る恐る伏せた目を警部補に向けた。
「彼女は私のことについて訊きましたか?」
しばらくの沈黙の後、無情にも警部補の口は「No」と形作られた。 フレイザーはその瞬間自分でも立っているのが不思議なくらい打ちのめされた思いがした。
(No……No…..No…….)響く2文字の言葉….。
警部補はフレイザーの気持ちを察したのか穏やかな調子でもう一度彼に訊いた。

「巡査、何番の女性か言ってくれないか?」
「No.2」フレイザーがやっとの思いで口を開いた。

フレイザーはその瞬間から現在の自分から切り離され思いは過去に遡っていた。

・ ・・・一心不乱になってレイの家を荒し鍵を探したこと、どうしようもない彼女への愛と悲しみに堪えたこと、何もかも捨てるつもりで列車へ乗り込もうとした自分、そしてレイの信頼を裏切った罪・・・・・・。

それらすべては一人の女性から引き起こされた。ヴィクトリア。彼女が今ここにいる。フレイザーは動けなかった。そして遠く彼方から警部補の声を聞いた。
「巡査を家まで送ってくれるか。」
フレイザーは何か温かいものが彼の肩を包み込むのを感じた。彼は振り向かずともそれかレイだというのがわかった。

しかし彼は無造作にもレイの手をバッサリと振り解くと、警部補のほうに向き直った。目は真剣だった。
「彼女と話をさせてください。」
ウェルシュ警部補は仕方ない・・・という表情をしこう言った。
「わかった。彼女を下の監房に送るからそこで話すといい。」

女性たちはゾロゾロと部屋から退出していった。それを見ていたフレイザーは急に逆上したようにガラスをこぶしで叩いた。
彼女が彼にした非情なことが脳裏を襲う・・・・途方も無い嘘、彼を殺そうとしたこと、無実の罪を着せようとしたこと・・・。 それにもかかわらず彼女を自分は愛していた。しかし最終的にヴィクトリアがフレイザーにした仕打ちはもっと冷酷だった。彼女はフレイザーが生きているかどうかも訊かなかったのだ。彼女にとってフレイザーが死んでいようが生きていようがどうでもよかったのだ・・・。

その後、フレイザーはどうやって監房に降りていったかは記憶になかった。レイに支えられながら部屋を出て気がつけば目の前にヴィクトリアがいた。檻の向こうで長い指を動かして「ハイ」と挨拶をしていた。顔には笑みを浮かべている。

フレイザーは胸の震えを押さえることができないままゆっくりと檻に近づいた。

***続く
2004.1.1

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